シニアー凌霜テニスクラブ 新年会
2007年1月22日
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昭和30年台半ばから在阪の若手OBが集まって飲み会、歓迎会、旅行などと集まって遊んで
飲む会(わいわい会=わいわい騒ぐという意味と、自分を大阪弁で“わい”と言うことからわい
らの会という意味)が大抵生駒さんのお世話で堺筋平野町角の第一楼、上町台?の上村、西
梅田の香穂、引き続き比較的長期に亘って大鉄局裏の弥生会館(菅井の紹介)で持たれてい
た。 最高齢の生駒さんが還暦を迎えられるのを機に昭和64年の新年の集いの案内で、今後
還暦を迎えるメンバーに赤チョッキを渡すことにしよう。 賛成者は入会金(チョッキ代)2万円を
払いメンバーになった。 (当時はカシミヤのチョッキは高価だったんですね。) |
会名案は色々出たが結局「シニアー凌霜テニスクラブ」とし、昭和28年卒を頭に33年卒までの
6年間で約30名が会員となった。第1回会合は昭和64年1月西宮の「青冥」で行われた。爾来
殆ど毎年正月に集い, 今年は1月11日JR大阪駅のホテルグランヴィア大阪で16名が集まって
賑やかに開かれた。
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後列左から:菅井、善野、民野、木下、加納、泉谷、佐野、多久、魚住(弟)
前列左から:石川、橋本、渡邊、中島、魚住(兄)、谷
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還暦を迎えず亡くなった石塚を除き全員がとっくに赤チョッキ年代を通過した。最初からのメン
バーだった澤松さんは亡くなってしまったが、残りのメンバーは老いてますます意気軒昂、今回
集まったのは今や最高齢の魚住(兄)、渡邊、中島(東京から参加)、石川、橋本、谷、泉谷、
佐野、菅井、田邊、加納、善野、木下、民野、多久、魚住(弟、東京から)。
残念ながら生駒さんは体調不良と身内のご不幸が重なって欠席された。
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午後1時集合写真撮影(田邊さんが遅れてきたため写真撮影には間に合わなかった)から始まり
8名づつシニアー組とジュニアー組に分かれ円卓に着席、司会役の菅井の案内で渡邊さんの挨
拶と乾杯の音頭で賑やかに会食がスタートした。
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食事半ばから最年長の魚住(兄)さんから一人3分スピーチ、
魚住さん: 現在住んでいる宝塚のチベット(月見山)の急傾斜にバス路線を開設するべく町内会
役員として奮闘中、
テニス現役の渡邊・石川・佐野さん: それぞれ昨年の対戦結果を中心に頑張りを披露
(記事はホームページに掲載)、
中島さん(東京から): 小島さんが亡くなって東京は加藤、魚住(弟)と3人になり飲み会も出来ず
寂しくなった。
橋本さん: 数え切れぬほどある肩書きを出来るだけ減らして行きたい。
泉谷さん: 今やコーラスに熱中九十数歳のお爺ちゃんも含む仲間で演奏会を楽しんでいる。
谷 さん: 膵炎から幸運にも初期肺癌が見つかり治療完治、その後の定期検査であちこちの
病巣が発見されたが何れも初期段階で抑えることが出来、酒も楽しく飲んでいると
元気そのもの。
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続いてジュニアーテイブル
菅 井: 現役女子部の監督をして若い子より元気を貰っている。
田 辺: 電通の人に2050年の世界はどうなっているかをテーマに長時間インタービューを受け随
分色々な事を喋ったので何が出るかは分らぬが電通通信がお楽しみ。
加 納: 病気もしたがお陰さまで後遺症も無く今は元気にしている。
民 野: 30坪ほどの畑で野菜つくりを楽しんでいる。(時々その恩恵にあずかってますとは善野
さん)
木 下: やっと社長職を息子に譲った。
多 久: 脳梗塞を患ってから7年になるが字が読めなかったり右手に力が入らなかったりだが、
今の状態で落ち着いている。
魚 住(弟):東京支部の活性化を図ってテニスの練習会などやっている。大先輩の高松さん(昭
和19年卒)はお元気でテニス会には参加戴いている。
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締括りに善野KUTC会長が男女現役学生の状況説明、スポーツ推薦が自由な私学と違いよい
選手を迎え入れるのは難しい。何とか来てくれないかと思っていた男子が明治に取られてしまっ
た。女子は河原、西浜の最終学年の活躍を期待。
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三時半にはお開きとなり皆名残は尽きぬが次回の再会を約束して“皆死ぬなよ”の合言葉で解散
した。
幹事:菅井・佐野(新3回)
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